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美観というのは人それぞれ、お仕着せではいけない。

 

書を勉強していくにつれ展覧会の書に違和感を覚えていた。僕はもともとがデザイナーだから『自分の美観を他人任せ』にすることに自己を売り渡してしまうような不安感がある。

筆や紙はいろいろ試すけれど、そこには墨や硯の入り込む余地がない。

公募展には公募展の書き方があり、師はそれに向けての指導をしてくださる、それはありがたい事で指導を謙虚に受け止めつつ自分の中で何が足りないのかを常に咀嚼し理解していかねばならない。展覧会には展覧会の書き方があり、普段づかいの掛け軸や帖はまた書き方が大いに異なる。

で、普段づかいの掛け軸などでよいと思った書には『境地』がある。上の師の尺牘がうちには10通以上あるけれど、その書は作為の入り込む余地のない呼吸感、境地に満ちている。『臨書をするなら尺牘が最上。』といわれる所以だ。

で、そういうことを母と話し『公募展は公募展の書き方美観がありそれにあわせるけれど、そうではない社中展2つ、八王子書道協会展は手本を書かず各々の美でやっていただこう。』『できるだけでもいいから、そのお弟子さんひとりひとりにあった硯と墨を紹介していこう。』ということを結論として決めた。

平たく言えば『原点に帰る』

 

その話の後、「お前はたいした目をもってるねえ、同じことを知り合いの評論家の方が仰っていたよ。」といって1枚の記事を僕に渡してくれた。

その方は津川晨さんといい、評論家だった。母の料理も何度も食べてお話も多くうかがったという。

 

そんな話しをしながら懐かしく上の師の尺牘を母と見返していた。

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