東京の八王子にある書道教室/書塾。 漢字、かな、子供の習字、硬筆、ペン字などお教えします。
よく『臨書を作品に活かしなさい』と言う
僕は展覧会書家という分類にいる。つまりその展覧会で『戦って勝たなければいけない』という命題を持っているワケだ。つまりは『古典そのまま』ではいけない。
線は強く、空間に品格を持ち、古風を守る。されとてただ派手に筆を躍らせたり、ギュウギュウと押し付けた線ばかりでは美容によろしくない。とはいえそういう古典は世の中には存在しないのでいろいろな古典にあるような線を取り入れたりする。
で、悩む。
『古典はすばらしい』といいながらなぜ古典のとおりにしない?
『古典の集字をしなさい』といいながら何故まったく違う線が入るのか?
字の造形をこんなにまで変えてしまうならばそもそも集字は意味がないんじゃないか?
たとえば米芾の集字をしているのに、なんで王鐸ばりの三字連綿、四字連綿をしなきゃならんのか?
原寸臨書ならまだしも、なんでこんなデッカイ字で臨書なんかさせる?筆管の角度が保てないだろー
...etcetc...と、まあこんな風だ
幸い僕は三人の『目の前で書いてくださる』師についた。
その三人については線を書く秒数や間合いを覚えこんでいる。これにはアニメの絵コンテを書いたりするときに体内時計を鍛えたことが役に立った、昔は3分まで行けたけどいまでも1分程度までならズレなしにカウントできる。
そのうえで代表作品をほとんどスキャン、PCでレイヤー化し重ねて研究をした。
で、同じ会派にいようが師弟何十年やっていようがその呼吸感も空間性も各線分に対して10%程度の誤差があった。つまりは精緻ではない。
それがデザイン上がりの僕の『キモチわるさ』の原因だったわけ。で、そちらのほうのアプローチは断念する
で、今度は王羲之『十七帖』『集王聖教序』、褚遂良『雁塔聖教序』、欧陽詢『九成宮醴泉銘』、米芾『蜀素帖』なんかとともに上の師の『草書千字文』を習うことにした。毎日1時間古典を臨書し、上の師の千字文を30分習う。
そこで見えてきたのが『こういうのはいいな』ということ。なぜ良いかといえば上の師の書も含めどれも落ち着いている、雄大ですらある。そして自分の作品を省みれば『やあビンボー臭いな』と苦笑するしかない。僕の書はどこか荒れていたり雑だったり、そんな風に見受けられてくる。自分がかけるかどうかは置くとして『ああ、品格とはこういうことか』と得心する
古典の息遣いを、筆法を学んだ上で推して自分の書を、空間を作らなければいけない。その上での『自分の作品』なわけだ。
なるほどなあ